三
御釈迦様《おしゃかさま》は極楽の蓮池《はすいけ》のふちに立って、この一部|始終《しじゅう》をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて陀多《かんだた》が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着《とんじゃく》致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足《おみあし》のまわりに、ゆらゆら萼《うてな》を動かして、そのまん中にある金色の蕊《ずい》からは、何とも云えない好《よ》い匂が、絶間《たえま》なくあたりへ溢《あふ》れて居ります。極楽ももう午《ひる》に近くなったのでございましょう。 (大正七年四月十六日)
底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房 1986(昭和61)年10月28日第1刷発行 1996(平成8)年7月15日第11刷発行 親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 1971(昭和46)年3月~11月 入力:平山誠、野口英司 校正:もりみつじゅんじ 1997年11月10日公開 2011年1月28日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
表記の変更 ※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71]の表記を、犍、に変更しました。